青松での伝統的な過程で紙を生産した支所は、安徳面支所里、巴川面新基里、中坪里の3ヶ所であった。 慶尚北道青松郡巴川面新基2里の甘谷村は、クヌギが多く水が澄んでいることから昔から製紙村として知られていた。
この村では1920年代まで約20世帯が韓紙を生産し、製紙を生業としない住民も副業とした。 しかし、窓ガラスの普及により障子紙の需要が急激に減り、韓紙を主に使っていた各種儀礼も現代化するなど、韓紙の消費が激減し、韓紙を巡る攻防は大きく萎縮した。
このような厳しい状況下でも先代の技能保有者である李相龍は松江里に移住し、彼の5代祖先の源泉である李石一から始まった家業を受け継ぎ、慶尚北道無形文化財第23号青松韓紙蔵に指定された。
現在は、李氏の長男である李ジャソンが家業を受け継ぎ、青松の韓紙技能保有者として活動している。 新基里甘谷村にある碧珍氏の斎室である「三体亭」は、家業を始めた源泉「李錫一」とその弟「甘泉·李在一」、石川·李香一の三兄弟の斎室兼亭子である。
最近、画仙紙と小紙、本紙、画家たちが使う張り紙などで伝統韓紙の需要は増えている。 慶尚北道無形文化財第23号の青松韓紙蔵技能保有者であるイ·ジャソンは、輸入楮の木を使わず、楮の産地である青松郡一帯と醴泉·龍宮などから原料を収集し使用する。
この資城は工房近くに約6,000㎡の楮畑を造成しただけでなく、青松韓紙体験館を造成し、青松韓紙の普及に努めている。