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K-CULTURAL HERITAGE

Everlasting Legacies of Korea

  • 1996.11.1
    指定日
    木版に文字や絵を刻んだ木版を刻字または書閣というが、印刷を目的とする場合は木版本という。 文字を逆に刻んで印刷方式によって印刷する過程も刻字といい、その技術を持った人を刻字帳または刻字という。

    各自が最も古い木版本として知られる新羅時代の『無垢浄光大陀羅尼経』と現存する最も優れた木版である『八万大蔵経』が作られるなど、寺院を中心に最盛期を迎えた。 朝鮮時代に入ってからもその技術が伝わり、訓民正音原本をはじめとする多くの木版印刷物が刊行された。 刻字帳の技量は角質の痕跡、字体の均衡度、間違った字や字画が抜けていることなどから推測できる。 間違いが生じた場合には、間違った文字の部分だけ掘り出して他の木を打ち込み、もう一度彫りつける。

    一方、宮殿の建物や寺院·佐賀の建築物にも木に文字を刻み、扁額を掛けることが一般化し、ほとんどの建築物には扁額が掛けられるようになった。 それに角を立てる作業もやはりそれぞれの長の仕事だった。

    朝鮮後期になると、それぞれの精巧さに欠ける現象が現れるが、木版印刷術に代わる代案がなかったため、依然として木版印刷に対する依存度が高かった。 その後、日本による植民地時代 写真術と新しい印刷術の導入により、伝統的な木版印刷は急速に姿を消すようになった。 また、最近では西洋印刷術の導入により急速に衰退し、建物の扁額や有名書道家の字を刻んだ板刻でその命脈を受け継いでいる。
  • 1973.11.5
    指定日
    霊山斎は49日目(人が亡くなって49日目に行う祭祀)の一形態で、魂が仏教を信じて頼ることで極楽往生させる儀式である。 釈迦が霊鷲山で行われた説法会相である霊山会相を今日に再現するという象徴的な意味を持っている。 霊山斎は仏教の遷都儀礼の代表的な祭祀で「霊山作法」とも呼ばれる。 起源は明らかではないが、李能和(イ·ヌンファ)の『朝鮮仏教史』によると、朝鮮前期にすでに行われていた。

    霊山斎は祭壇が作られる所を象徴化するため、野外に霊山会上図を掲げることから始まる。 信仰の対象を寺の外で祀る行列儀式を行うが、この時仏の功徳を讃えるために奚琴、太鼓、チャング、コムンゴなどの各種楽器が演奏され、バラ踊り、蝶踊り、法鼓踊りなどを踊る。 信仰の対象が移った後は、様々な例を挙げて願いを込め、霊魂に祭祀を行う。

    最後に信仰の対象を返す奉送儀礼をするが、祭壇が建てられた所ですべての大衆が列を作って回りながら読経などを行う。 以前は三日昼と夜にかけて行われていたが、最近はその規模が縮小し一日で行われるようになった。

    霊山斎は伝統文化の一つで、生きている人と死者のすべてが仏の真の真理を悟り、煩悩と苦しみから脱することができる境地に至らしめ、公演ではなく大衆が参加する荘厳な仏教意識としての価値がある。
  • 1973.11.5
    指定日
    全羅南道珍島地方の農夫が農業を営む際に歌う歌のことをいうが、大きく水田仕事の歌と畑仕事の歌で構成されている。

    苗床で苗を蒸す時は苗代を呼び、田に苗代を植える時は苗代を呼び、田んぼで草取りをする時は節に唄を歌う。 草取りが終わって農夫たちが村に入ってくる時は、キタリスを呼ぶ。 余興として「珍島アリラン」を歌ったりもする。 農夫たちが野良仕事をしながら歌う歌は、昔からどの地域でも見られるが、全羅道西南地域の歌はその種類が多く、音楽性も優れている。

    また、珍島郡の畑仕事の音は全羅南道の他の地方に比べて単純であるが、これは肥沃な土質であるため、草取りをする必要もなく手で結べば良いからである。 畑仕事の歌は、畑仕事をしながら歌う「豆畑の歌」、綿畑の仕事をしながら歌う「米英畑の歌」がある。

    南道の歌は郷土色が濃く、リズムがとても楽しい歌だ。
  • 1969.11.10
    指定日
    歌曲は始祖詩(韓国固有の定型詩)に曲を付けて管弦楽の伴奏に合わせて歌う韓国の伝統音楽で、「索大葉」または「歌」とも言う。

    歌曲の原型は、万代葉、中大葉、数代葉の順であるが、遅い曲の万代葉は朝鮮英祖(在位1724~1776)以前に失われ、中間速度の中大葉も朝鮮時代には呼ばなかったという。

    現在の歌曲は朝鮮後期から現れている早生まれの曲である「朔大葉」から派生したもので、調べと関係のある様々な曲が5枚形式の歌集になっている。

    現在伝承されている歌曲は、羽調、界面調を含め、男唱26曲、女唱15曲の計41曲であるが、このうち女唱は、女唱歌曲を女が歌えるように少し変形させたもので、男唱とほぼ同一である。 ただ、女唱特有の繊細さが目立つ旋律と高い音域の中の音(歌声)を出す点が違う。

    形式を見ると、始祖詩の一編を5枚に分けて歌うが、前奏曲の大与音と間奏曲の中与音を入れて大与音、1枚、2枚、3枚、中与音、4枚、5枚の順で繰り返す。 非常に組織的で、しっかりした構成の演奏は、コムンゴ(琴)とカヤグム(伽倻琴)、ヘグム(奚琴)、テグム(大琴)、短簫、チャング(杖鼓)などで構成される。

    歌曲は変化なく長い間命脈を保ってきており、他の音楽は一般的であるのに対し、専門家によって伝承されてきた芸術的価値の高い音楽である。
  • 1992.11.10
    指定日
    小盤とは、食べ物の入った器を載せる小さなテーブルで、韓国の食生活から祭祀儀礼に至るまで、様々な用途で使われる台所家具である。 小盤を作る技術又はその職人を小盤長という。

    高句麗の角底塚·舞踊塚などの古墳壁画には様々なタイプの小盤が現れており、『三国史記』、『別史』、『経国大典』などの記録によると、国家に所属していた像を作る機関が分業化し、生産を担当していたことが分かる。 朝鮮時代には儒教の理念の影響で、謙譲床よりは毒床が主に使われ、祭礼や婚礼など大小の行事により様々な用途の衣装が必要となり、自然とお膳作りが発達した。

    小盤の種類は産地·形態·用途によって約60種に分類される。 大きく分けて海州班、羅州班、統営班、忠州班、江原班などに分けられるが、海州班は彫刻中心の小班、羅州班は中大中心の小班、統営班は雲角中心の小班である。 また、橋の形においても慶尚道は竹折形(竹節形)、全羅道は虎足形(虎の足形)、江原道·京畿道は九足形(開発形態)が主に現れる。
  • 1973.11.11
    指定日
    山台劇とは中部地方のタルチュムを指す言葉だ。 松坡山台ノリはソウル·京畿地方で楽しんだ山台図鑑劇の一つで、舞と無言劇、徳談と洒落が調和した民衆の遊びである。 この遊びは毎年小正月と端午·中元·秋夕に名節遊びとして公演された。

    ソンパ(松坡)村はキョンギド(京畿道)一帯の商業拠点であったが、約200年前ソンパ(松坡)場が最も栄えていた時にサンデ(山台)ノリが盛んになり、今日まで伝わるノリの形に完成したという。 松坡山台ノリは全7課長で構成されており、ノリの前に仮面と衣装を備え、音楽を鳴らしながら公演場所まで行列する街頭ノリをし、仮面を配列して告祀を行う。

    遊びの内容や誇張·舞·仮面などは楊州別山大遊戯とほぼ同様であるが、いくつかの仮面と踊り、配役が昔の形をしているのが特徴である。 つまり楊州ビョルサンデノリではすでに姿を消したファジャンム踊りが残っており、海産オモム、シンハルミ、巫女の仮面が残っていて、これらの仮面が演じる役が別にある。 パガジ、松の皮、紙などで作られた33のタル(仮面舞)が使われ、遊びの形態は他のタルチュム(仮面舞)と同様、舞がメインとなり、才談と動作が加わる。
  • 2017.11.15
    指定日
    「キムチ作り」は過去から現在まで地域的、社会的、経済的な違いを越え、大韓民国の国民全体が共同体として参加する日常的·反復的な文化である。 キムチは地域を問わず韓国人の食事には欠かせない食べ物であり、国際的にもその優秀性が認められ、韓国を代表する食べ物の一つとして位置づけられている。

    そして歴史的にも相当期間、韓国文化の重要な構成要素として協同と分かち合いという共同体精神が込められた文化で、このような文化を通じて個々人は門中、親戚、村、隣近所、新共同体との関係で結束を持つようになり、アイデンティティを形成するようになった。

    キムチ漬けの核心である「キムジャン」は自然と人間が一緒になって暮らす伝統知識を含んでおり、社会善を維持するために強調する分かち合い、結束、和合などの精神は現代社会まで続いている。

    過去には蓄積された経験と知識を基に、母親、嫁などの女性共同体を中心に世代間伝承が行われていたが、現代は科学が結びつき、男性もキムジャンに参加する積極的な主体に変わりつつあり、学校、民間団体、地方自治体も様々な形態のキムジャン文化伝承活動に積極的に参加している。

    また、キムチから発生する多様な発酵菌は生物学的多様性を示すと同時に、地域的多様性を示すことで自然環境によって派生する文化多様性をうかがうことができる。

    キムチ作りは高度の特別な技術を必要とするよりは、韓国全域に伝承される生活慣習であり、文化という点で特定保有者や保有団体を認めなかった。
  • 2006.11.16
    指定日
    金箔職人とは織物の上に薄い金箔を用いて様々な文様を印刷する職人で、現在では女性の婚礼服などに見られる。

    金箔装飾は朝鮮時代には王室で制限的に使用されており、保管上の問題で現前する遺物は多くなかったが、純祖の3女、徳温公主(1822~1844)が婚礼の際に着ていたものだと伝える原三には「」と「와」の字が金箔で飾られている。(重要民俗文化財第211号の徳温公主衣)

    金箔の装飾は接着剤を塗った文様板を文様を入れる位置に押し、接着剤が乾く前に金箔を貼った後、文様の外にある金箔を再び剥がす方法で製作される。

    金箔職人の技術は服の構成に合う文様を選別·配置する眼目をもとに、文様板を彫刻する木工芸技術と主な材料であるにかわと金箔職人の物性を理解し、活用できる長年の製作経験をもとに完成する技術である。

    金箔は金箔を叩き続けることで薄い紙のように作られたものであったが、金箔を用いて織物などに文様を飾る技術として理解されていることから、指定名称を「金箔匠」と名付けた。

    金箔匠は、韓国の服飾文化を華やかで品格のある装飾を施す工芸技術で、国家無形文化財指定により伝承の脈を蘇らせることができたという点でその意味が大きいといえる。
  • 1980.11.17
    指定日
    木家具の結合部分を補強し開閉することができる錠などの金属製装飾を長石といい、銅と錫を含んだ黄銅(真鍮)長石を作る職人を頭石匠と呼ぶ。

    長石の材料には黄銅と白銅が使われ、より贅沢な長石にするためには白銅が使われる。 錫や白銅を入れて加熱溶かし、これをハンマーで叩いて0.5㎜厚の板鉄で伸ばし、面をきれいに整える。

    さらに、型に沿って作図と鑿で切り、やすりを削り、活肥と鑿で文様を刻んだ後、磁器の粉末をつけた布でこすって光沢を出して完成する。

    葬石の種類には、葬石を付けるものによって農場石、櫃長石、衣掛け長石、一夜漬け長石、謀反長石、伝統葬石などがあり、文様は八峰、紗帽、阿紫、蝶、コウモリ、フナ、鶴などがある。

    錠前には亀の形をした鉄筒、飛殻の形をした鉄筒、亀の形をした鉄筒、垂木の形をした鉄筒などがある。 長石だけでは一つの完成品にならないため、小牧場の注文で特別製作された。
  • 1980.11.17
    指定日
    蓮竹(れんちく)とは、一般的にキセルのことをいう。 白銅で作ったキセルを白銅練竹といい、白銅の煙草を作る技術とその技術を持つ人を白銅練竹場という。

    キセルを作り始めたのは壬辰倭乱(文禄·慶長の役)後、日本を通じてタバコが伝来してからだと伝えられ、そのためか対日貿易の中心地だった東莱が伝統的な名産地である。

    煙管の構造は、口にくわえて煙を吸い込む水口と、タバコを入れて燃やす竹製の棒、そしてそれを繋ぐ細い竹製の雪台の3つの部分で構成される。

    竹製の棒は熱を受け、構造上破損しやすいので、銅、真鍮、白銅のような金属で作る。 たまに詐欺製品も見られるが、極めて珍しい例である。

    水口は鉄に限らず玉、象牙、牛の角など比較的様々な材料を自由に使う方だ。 模様によって名前が異なるが、模様のない白銅製の練竹はすっぴん、模様のきれいなものは星竹花軸と呼ばれる。

    星粥は材料によって銀水粥、桐粥と呼ばれる。 白銅の練竹を作る過程は最初に白銅を作るが、銅58%、ニッケル37%、亜鉛5%の割合で合金する。 ニッケルの含有量が多いと白色が現れる。 合金した金属を叩いて非常に薄く作り、模様を入れて全ての部分を鋳込んで作るが、金·銀細工のような繊細な作業が必要である。

    韓国の蓮竹は、東莱の青い装飾蓮竹と金銀で刻んだキセル、そして慶州·金泉·領海·蔚山·醴泉などで作られたものが有名で、全羅北道南原と京畿道安城地方で今日まで受け継がれている。
  • 1980.11.17
    指定日
    網巾とは笠をかぶる前に髪の毛が流れないように馬の甲で編んで作った一種の鉢巻である。

    網巾は上の部分を締める幢(身を包む幢)、下の部分を締める蹄鉄(先端)、網のように絡み合って額の部分を包む前、後頭部を囲む後ろに構成される。

    このほか、階級を表示したり飾るために、冠者と風雀をメダルすることもある。 網巾の材料には馬のしっぽの毛や人の髪の毛を使い、作る過程は蹄鉄から前·後編みへと続き、糖をかけて網巾を煮て柔らかくした後、染色をして組み立てて完成する。
  • 1980.11.17
    指定日
    タンゴンは男性が笠をかぶる時に支える帽子の一種で、紗帽や笠の代わりに普段から家の中でかぶり、馬や牛の尾毛で作る。 このようなタンゴンを作る技術とその技術を持った人をタンゴンジャンという。

    朝鮮時代には官職者が普段から官に代わって着用し、俗に「官職」とも呼ばれる官職につくことを指す「官職をかぶる」という表現もこれに由来する。

    韓国の唐巾は中国から来たものなのか、それとも高句麗の壁画や古代の官帽から変化したものなのか明らかにすることは難しいが、高麗時代には中国の宋の影響を受けたものと見られる。

    なぜなら、新羅(シルラ)の崔致遠(チェ·チウォン)や高麗(コリョ)時代の人物である李이색(イ·セク)、鄭夢周(チョン·モンジュ)などを描いた高麗後期の肖像画でかぶっている帽子が、蕩健(タンゴン) この形は朝鮮前期まで続く。

    唐巾は韓国の馬銃のほとんどが済州島で生産されるため、済州島で最も多く作られた。

    「蕩健」は「単호탕健」と「重湯건健」、「囲碁蕩健」に分類される。 いずれも形は同じだが、幾重にも2重、3重に編んでいく方法によって形が変わったのである。 囲碁蕩巾は四角の模様を置いたものであるが、これは蕩巾が独立した帽子の役割をしたことから装飾されたものである。
  • 1980.11.17
    指定日
    密陽伯仲遊びは忙しい農作業を終えて厳しい仕事をしてきた下男たちが旧暦7月15日頃、龍の日を選び、地主たちから一日休暇を取って楽しく遊ぶ遊びをいう。

    このような遊びは「草取り」といって稲作を主に行っていた中部以南地方の農村ではよく見られる。 密陽では「作男の日」と呼ばれ、地主たちが準備してくれる酒と料理を指すコムベギチャム(コムベギチャム)を食べ、「遊ぶ」ことからコムベギチャムノリとも呼ばれる。

    密陽伯仲遊びは農神祭、乗馬、踊り場、裏遊びなどで構成されている。 農楽を歌いながら五方津句で農神祭が始まると、庭には三大で作った農神台を建て、縄を綯って作った龍を吊るす。

    農神台を中心に丸く立ち、三回お辞儀をし、伏せの福を祈るが、そのうちの一人は祝文を読む。 下男たちの中から農業で優秀な人を選び、松葉杖で作った下馬に乗せて遊び場を回りながら農楽で興を盛り上げてデモする遊びだ。

    踊り場は両班の踊りで始まるが、リズムに合わせて両班らしくゆったりと踊っていると、下男たちが両班を追い出して小人、中風張二、腹巻き、コブハルミ、震え、文箱、コプチュ、ヒジュルデギ、奉仕、チョルムバリなどの滑稽な踊りを踊る。

    続いてバンブー踊りと五北踊りを踊るが、バンブー踊りは2人が交代しながらジャンゴ·ジャブの前で妙技を披露する。 五北踊りは密陽でしか見られない独特な踊りで、5人の太鼓ジャブが太鼓をたたいて丸く円の中と外に移動しながら踊るのが特徴で、力強く素敵な踊りだと言える。

    裏遊びはすべての遊び人が和睦の意味で一緒に踊る踊りで、拍子拍子も頻繁に変わり、それぞれ個性的で即興的な踊りで構成される。

    密陽伯仲遊びの特徴は、農民と賎民の恨みが全体遊びの中で滑稽に表現されているという点だ。 ピョンシン踊りと五北踊りは密陽でのみ伝承されており、ペキムネサウィはこの遊びの主な踊りとして踊りの動作が活発で、右手と右足が、左手と左足が一緒に動くのが特徴だ。
  • 1980.11.17
    指定日
    別神クッとは、村の守護神である3年、5年、または10年ごとに村の守護神である聖皇(ソナン)様に村の平和と農事の豊作を祈願するクッのことをいう。

    慶尚北道安東河回村では、約500年前から10年に一度、大晦日(12月15日)や特別なことがある時は、無尽生の盛況に別神クッを行い、クッとともに聖皇を楽しませてあげるためにタルノリをした。

    河回別神グッタルノリは各市の舞童マダン·住職マダン·白丁マダン·ばあさんマダン·破戒僧マダン·両班マダン·ソンビマダン·婚礼マダン·新房マダンの8マダンによって構成されている。

    遊びを始める前に大内林をするが、正月の翌日の朝、成皇堂に上がり、唐鈴のついた降臨台を持って盛況神を降ろすと、唐鈴を成皇台に運んで山から降りてくる。 盛況台と降臨台を東寺の軒に立てかけると、ようやく遊びが始まる。

    登場人物としては住職·閣下·中·両班·ソンビ·チョレンイ·イメ·ブネ·ベクジョン·ハルミなどがいる。 破戒僧に対する嘲笑と両班に対する辛辣な風刺·諧謔などを内容としている。

    河回別神グッタルノリは祭祀儀式の性格を帯びている。 特にカクシタルは盛況神の代わりになると信じられ、別神クッの他には見られないが、やむを得ず取り出す時は祭祀を行わなければならない。

    遊びに使われるタルは、住職タルなどを含め計10種11個で、漆と顔料を2~3重に塗って色調の強度を高めた。原本は1964年、河回タル及び屏山タル(国宝第121号)に指定された。

    仮面劇の伴奏は鉦が中心となる農楽師であり、即興的で日常的な動作に若干のリズムを合わせた踊りで行われる。

    河回別神グッタルノリは仮面を燃やして楽しむ打ち上げパーティーがないのが特徴であり、韓国の仮面劇の発生と起源を明らかにする上で貴重な資料として価値を持っている。
  • 1980.11.17
    指定日
    楊州牛遊びクッは、旧正月と立春を迎え、家族の繁栄と豊作を祈願する儀式で、ソグッ·ソノルムグッ·マブタリョングッとも呼ばれる。

    楊州牛遊びクッの由来は楊州地方で山神と見なされる甘楽寺から始まったという説と農耕儀礼の一つで豊作を祈ることから始まったという説、所蔵水がうまくいくことを願うことから生まれたという説、宮中儀礼から始まったという説、クッの余興から始まったという説があるが、正確な由来は明らかにされていない。

    ただし、牛や馬、天を崇拝するソメクノリに起源を置き、巫俗の帝釈(チェソク)通りとママ配送クッなどで刺激を受けて形成された遊びと見ており、楊州地域だけでなくソウルと京畿道·江原道·忠清道·黄海·平安南道でも行われてきた。

    牛の遊びは単独で行うのではなく、帝釈通りに続いて遊びを始めるが、これは牛のために子孫繁栄と長寿を祈る農耕儀礼的な性格が似ているからだ。

    帝釈通りが終わると、チャンゴ前の木頭に豆をいっぱい盛って干し明太一匹を刺して牛の手綱を杭にする。 楽士と杖鼓を担当した曺務が庭に向かって座り、クッコリ拍子が鳴ると、白い峠に白い長蛇の実をつけた主주무が右手に帝釈の扇子を持って縁側に立つ。

    子牛が先に入って遊び、門に行っては御者と牛を引き入れる。 わらで包んで頭を作り、むしろを半分に折った中に5~6人が入って牛に化ける。 子牛は一人がわらのむしろをかぶって遊ぶ. 馬を使う円馬部は、黒い前立腺に藍色のアワビを、右手に三神扇子、左手に手綱を持つ。

    グッの舞台が床から庭に移り、主人公も巫女から御者に変わる。 グッは巫女と馬夫との対話と馬夫の話と徳談、馬夫の踊りと動作、牛の動作で構成されるが、馬夫の話は歌詞の内容は長いが洗練された平民歌詞体で文学的な価値が高い。

    「牛遊びクッ」の音のくだりは、「誰が私を探しているのか」から始まり、「馬夫ノジョンギ」(宝物打令)、「馬夫大佐挨拶」(牛の頭の歯礼)、「節打令」(牛の角突き)、「牛の角突き」(雑穀の音)、「牛の角突き」(牛の角突き)、「牛の角突き」(牛の角突きの順で歌われる。

    楊州牛遊びクッは、クッの歌詞が洗練された平民の歌詞体になっており、他のクッに付いて遊ぶクッの中でも最大規模のものである。