史跡第124号 '徳寿宮'

K-HISTORY

Meaningful Days of Korean History

史跡第124号 '徳寿宮' +

1963.1.18
指定日
朝鮮時代の宮殿として慶運宮と呼ばれていたが、高宗皇帝が1907年に王位を純宗皇帝に譲り、その後もここに留まることになり、高宗皇帝の長寿を祈るという意味の徳寿宮と改称された。

徳寿宮の跡には朝鮮第9代王の成宗(ソンジョン)の兄、月山大君の家があった。 文禄·慶長の役が終わり、漢陽に戻った宣祖は、宮殿が全焼していなかったため、臨時で月山大君の家を建て、宣祖26年(1593)から宮殿として使用し始めた。 そして近くの鶏林郡(ケリムグン)と沈義謙(シム·ウィギョム)の家も宮殿に含めた。 ソンジョ(宣祖)の後を継いだクァンヘグン(光海君)は即位3年(1611年)にキョンウングン(慶運宮)と呼び返し、1615年にチャンギョングン(昌慶宮)に移すまで王宮として使用した。 その後、宣祖の王妃である仁穆大妃が慶運宮に追い出されるようになったが、その後光海君はここを西宮に呼び捨てた。

光海君が仁祖反正により1623年に退き、仁祖は即朝堂と石魚堂だけを残して残りの建物を昔の主人に返すか、なくしてしまった。 その後、高宗皇帝がロシア公館から移され、再び王宮として使用されるようになったが、その時から宮殿らしい建物を備えるようになった。

1904年の大火でほとんどの建物が焼失すると、西洋式の石造殿が建てられ、本来の宮殿の空間との調和が失われた。 その中で最も大きな変化は正門が変わったことだ。 徳寿宮の正門は南にあった仁和門であったが、再建の際に東にあった大安門を修理し、名も大漢門に改称した。

朝鮮後期に宮殿として整備された場所ではあるが、朝鮮末期の歴史的な現場であり、伝統木造建築と西洋建築が一緒に残っている場所で、朝鮮王朝の宮殿の中でも独特な位置を占めている。
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