勤労民主党党首ヨ·ウンヒョン(1886~1947)暗殺

K-HISTORY

Meaningful Days of Korean History

勤労民主党党首ヨ·ウンヒョン(1886~1947)暗殺 +

1947.7.19
呂運亨暗殺日
呂運亨は1918年、上海で新韓青年党を結成し、独立運動に身を投じた。 1919年には朝鮮独立を知らせるため、パリ講和会議に代表を派遣し、上海臨時政府の初代内閣に外務部次長を歴任した。

1919年11月、呂運亨は日本内閣の招請を受ける。 数百人の日本人記者に対する演説で彼は朝鮮の独立を主張し、日本政府を批判する。 呂運亨を懐柔しようとした日本内閣は逆風を受け、衆議院解散事態に置かれる。 1929年、呂運亨は日本の警察に逮捕され、3年間収監される。 出獄後、朝鮮中央日報社長になった彼は、ベルリン五輪のマラソンで孫基禎(ソン·ギジョン)が優勝すると、日の丸削除の写真を掲載した。

1944年8月、呂運亨は左右を網羅した愛国勢力を集めて建国同盟を結成する。 これは、解放後、発足2日で体制を整えた建国準備委員会の基礎となる。 しかし、統一政府樹立の道は容易ではなかった。 モスクワ三国外相会議の信託統治案で左右対立が激しくなった。 統一臨時政府の構成を議論しようとした第1次米ソ共同委員会が決裂した。

1946年6月、李承晩は井邑で単独政府樹立を提案し、呂運亨はこれに反対する。 統一政府樹立のために左右合作を推進した呂運亨に両陣営の非難と攻勢が殺到し、彼に対する絶え間ないテロが発生する。 結局呂運亨は1947年7月19日、暗殺される。 彼の死で統一政府樹立の夢が止まってしまう。

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